人間関係を整理した話
きっと今が人間関係の整理に最適な時期なのだろう。どうせ会えないのだから、今のうちに連絡の頻度を落として、ゆっくりと疎遠にするのがベターな選択だ。
このコロナ禍で皆それぞれ、会える人会えない人、会いたい人会いたくない人の選別を無意識でも意識的にでもしているのではないだろうか。
私もその1人だ。選別する側であり、される側でもある。最近は特に、もともとのリセット癖に拍車がかかり、様々な人と距離を置き始めている。
私だって完全なる善人というわけではないので、向こうに100%非があるというわけではないのだが。しかし、それを踏まえた上で離れたいと思ってしまう人が定期的にできてしまう。
私が距離を置く人の特徴は様々である。やけに図々しかったり、逆に秘密主義であったり、虚言癖があったり、筋が通っていない人であったり。別に表面上であれば関係を続けていける欠点ではあるが、私は人を信用しやすく距離感が近い人間であるため、段々とそういったところが気になり、我慢できなくなってしまうのだ。そしてある日スッパリと関係を絶ってしまう。
相手からしたら話し合いもしないで自分勝手だと思うだろう。しかしながらこちらとしても直らない性格をわざわざ指摘するために話し合いを設ける時間と、今後も付き合いながらふとした時に感じる負の感情が無駄に思えて仕方がないのだ。大学に入ってからというもの日々の生活を送るのに精一杯で、人間関係は私の生活のほんの隙間に入ってくる程度のものになってしまった。相手も勿論忙しいだろうし、小中学生じゃあるまいし、仲良くし続けなければいけないなんていう義務はない。なので私は「もういい大人だし、そっと離れてもいいだろう。世界は広いのでもっとこの人と合う人はいるはずだ。私の知らないどこかで幸せになってくれ。」という気持ちを込めて連絡先を削除する。
友人と話した内容、出かけた場所、過ごした時間はとても素晴らしいもので、出会わなければ良かったという後悔は一切ない。むしろ本当に今まで仲良くしてくれて感謝している。だからこそここで区切りをつけたかった。
それだけです。特にオチはないよ。
最後に最果タヒさんの彫刻刀の詩を紹介して終わりにしたいと思う。
「きみに会わなくても、どこかにいるのだから、それでいい。
みんながそれで、安心してしまう。
水のように、春のように、きみの瞳がどこかにいる。
会わなくても、どこかで、息をしている、希望や愛や、心臓をならしている。
死ななくて、眠り、ときに起きて、表情を作る、テレビをみて、じっと、座ったり立ったりしている、きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない、
きみがどこかにいる、
心臓をならしている、
それだけで、みんな、元気そうだと安心をする。
お元気ですか、生きていますか。
きみの孤独をかたどるやさしさ。」