kinoko_gwc’s blog

文才ねぇんだわ

就活体験記①3月編

働きたくない私なりにも、就職活動はしなければいけないものだという理解があったので(そんなことはないが)3月からしぶしぶ就活を始めました。

もともとは航空業界を志望して大学に進学したのだが、コロナ禍で先行き不透明なのを見て即諦めた。なので3月に志望した業界はメーカー、鉄道、出版だ。生活に身近であるのと、ものづくり系に興味があったからだ。3月に20社ESを提出し、全てESの段階で落とされた。ウケた。今まで就活の事前準備(ES添削や面接対策)などを一切してこなかったため今思うと当然の結果なのだが、当時はこれで何もやる気がなくなっていた。

なぜ何も就活準備をしてこなかったかというと、なんとかなると思っていたからだ。就活って恋愛と一緒らしいじゃん?(違う)過去の恋愛の失敗率低いしいけるっしょ!という謎理論で3月まで現実逃避をしていた。

 

まずガクチカと自己PRの違いが分からない。自分の性格がわからない。人生設計、キャリアプランも何も考えていない。そんな段階から始まった3月であった。

 

でも安心して欲しい。今でも全部分からない。

 

短歌について①

お久しぶりです。2年ほど前からゆるりと短歌を好きになり、今は歌人の個展に通ったり自分でちょくちょく作品を作るようになりました。

到底世に出せるような代物じゃないけど、歌を詠むことは自分の過去を肯定したり、未来に対する不安をぶつけたりといった一種のカタルシスを得ることのできる行為だと思いました。短歌作りや作曲、絵画のような自己表現だけではなく、映画や小説、ゲームなどから受け取るカタルシスも多いと思いますが、たまたま短歌という表現方法が私の感性にぴったりとはまりました。

 

今の時代に短歌?そもそも短歌ってなんだっけ?と思う人も多いと思います。実際短歌を周りでやっている人は少ないし、それゆえになんだか難しそうな趣味というイメージもついている気がします。

でもやっていることはTwitterと似たような感じです。140字という字数制限の中でいかに考えを書くか、と同じように5・7・5・7・7の31音の中で作っていくだけです。

 

ただやはり私たちが普段使っている言葉の語数では明らかに伝え切れないものが多いです。短歌のいいところは31音の外にある情景や経緯、作り手の意図は読み手の想像力に任せられるところです。31音の中が狭いからこそ外側に余白ができ、読み手によって何通りもの解釈が生まれます。その余白が好きだから私は短歌が好きです。

 

私が好きな短歌は現代短歌です。口語で書かれているため読みやすいことは勿論ですが、現代の社会問題や文化といったテーマに共感を得やすく、読み手と作り手の間の共通観念が多いために理解しやすいです。

古今集百人一首などに編纂されている短歌は、現代でも丁重に保管され、今でも読まれているくらいの名作ばかりです。しかしながら当然、彼らが見ていた風景は今の私たちの見ている日本の景色とは全く異なります。また、男女の文化や伝統など私たちが知らない事項も多くあるため、ひとつの歌を詠みとくには多くの知識と膨大な時間がかかるはずです。それもそれで古代、近代短歌の魅力ではあるのですが、初心者には現代短歌が手頃で良いと思います。

 

さて、気が向いたら次はわたしの好きな現代歌人と作品を紹介していきたいと思います。

 

 

 

わたしの物欲が経済を回す

人間の3大欲求といえば、食欲・性欲・睡眠欲だ。しかしわたしの欲求は物欲が8割を占めている気がする。

とにかく買い物をしたい。女性なら割とあると思うのだが、ストレスの発散方法として買い物をして散財をするということがしばしばある。

 

買ったあと、手に入れたものをニヤニヤしながら愛でることでストレスを発散するのではなくて、買い物をしている最中、レジに商品を通すまでにドーパミンがドバドバと出てストレスが発散されている(気がする)のだ。

 

買い物をしている間に湧いてくる主な感情の内訳としては、

・これで私も可愛くなれる(気がする)

・欲しいものが手に入って嬉しい

・自分に自信がついていく(気がする)

・働いていた時の自分が報われる

・ご褒美をもらった気分になって嬉しい

 

などである。

 

私がよく買うのは化粧品や服がほとんど。化粧品や服は何を纏うかより誰が纏うかが非常に重要なのであって、側から見ても大差はない。一般人の私にとっては全てが自己満足に過ぎないのである。

しかし、自分の気に入ったものを纏うことで自分の日々のモチベーションに繋がるので私の中で服と化粧品はなくてはならない存在なのだ。

 

服は服でも量産型はイヤだし、かといってサブカルチャーもイヤ、高級ブランドで固めるのもイヤ…と非常にこだわりが細かくめんどくさい人間is私。大学に入って日常を私服で過ごす機会が増えたため、必然的に着る服も増える。

今でこそなんとなく自分に似合う服を見つけたが、自分の方向性を何度も間違え、血迷い、努力した過去の私に称賛を送りたい。

 

 

 

 

 

人間関係を整理した話

きっと今が人間関係の整理に最適な時期なのだろう。どうせ会えないのだから、今のうちに連絡の頻度を落として、ゆっくりと疎遠にするのがベターな選択だ。

このコロナ禍で皆それぞれ、会える人会えない人、会いたい人会いたくない人の選別を無意識でも意識的にでもしているのではないだろうか。

 

 私もその1人だ。選別する側であり、される側でもある。最近は特に、もともとのリセット癖に拍車がかかり、様々な人と距離を置き始めている。

私だって完全なる善人というわけではないので、向こうに100%非があるというわけではないのだが。しかし、それを踏まえた上で離れたいと思ってしまう人が定期的にできてしまう。

 

 私が距離を置く人の特徴は様々である。やけに図々しかったり、逆に秘密主義であったり、虚言癖があったり、筋が通っていない人であったり。別に表面上であれば関係を続けていける欠点ではあるが、私は人を信用しやすく距離感が近い人間であるため、段々とそういったところが気になり、我慢できなくなってしまうのだ。そしてある日スッパリと関係を絶ってしまう。

 

相手からしたら話し合いもしないで自分勝手だと思うだろう。しかしながらこちらとしても直らない性格をわざわざ指摘するために話し合いを設ける時間と、今後も付き合いながらふとした時に感じる負の感情が無駄に思えて仕方がないのだ。大学に入ってからというもの日々の生活を送るのに精一杯で、人間関係は私の生活のほんの隙間に入ってくる程度のものになってしまった。相手も勿論忙しいだろうし、小中学生じゃあるまいし、仲良くし続けなければいけないなんていう義務はない。なので私は「もういい大人だし、そっと離れてもいいだろう。世界は広いのでもっとこの人と合う人はいるはずだ。私の知らないどこかで幸せになってくれ。」という気持ちを込めて連絡先を削除する。

 

友人と話した内容、出かけた場所、過ごした時間はとても素晴らしいもので、出会わなければ良かったという後悔は一切ない。むしろ本当に今まで仲良くしてくれて感謝している。だからこそここで区切りをつけたかった。

それだけです。特にオチはないよ。

 

最後に最果タヒさんの彫刻刀の詩を紹介して終わりにしたいと思う。

 

「きみに会わなくても、どこかにいるのだから、それでいい。

みんながそれで、安心してしまう。

水のように、春のように、きみの瞳がどこかにいる。

会わなくても、どこかで、息をしている、希望や愛や、心臓をならしている。

死ななくて、眠り、ときに起きて、表情を作る、テレビをみて、じっと、座ったり立ったりしている、きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない、

きみがどこかにいる、

心臓をならしている、

それだけで、みんな、元気そうだと安心をする。

お元気ですか、生きていますか。

きみの孤独をかたどるやさしさ。」

 

 

 

 

 

 

実家帰省したらヤバかった話

先日、約半年ぶりに千葉の実家へ帰省した。長い自粛期間、東京で暮らすのはなかなか心身共に応えた。その期間に溜まった小さな愚痴や、笑い話を家族に直接話したくて不安はあるものの、多少は楽しみな気持ちで帰省した。

 

 すると、まるで実家は別の家のようだった。

(補足をしておくと、私の両親は再婚し、お互い連れ子が2人ずついる。しかしマンション内別居をしているため今父方と母方の家族で別々に暮らしている。)

ひとり暮らしを始めたため私の部屋がなくなったのは聞いていたが、かつての私の部屋は足の踏み場のないガラクタ置き場になっていた。私は綺麗好きなので、実家時代は自分の部屋も綺麗にしていたし、気になればリビングを片付けたりしていた。

しかしながら現在の家全体は荒んでいた。冷蔵庫には使いきれなくて腐った食材が詰まっており、水回りは汚かった。基本的にどこに何があるのかさっぱりわからない状態で、かつて私が住んでいた家だとは思えなかった。

 

 この家の管理者は基本的に母である。母の変化は自粛期間でハッキリと分かるようになっていた。今まで母は外に出て忙しく、政治等にはあまり関心のない(ように見えた)性質だった。都内暮らしのわたしにはあまり連絡もよこさなかったし、それでも私は平気だった。

 しかしコロナ禍に、徐々に連絡の頻度が増えてきたのだ。最初は「どう?元気してる?」というような気軽な世間話だったのだが、ある日突然「米中戦争が起こる前に貴方だけでも海外へ逃亡させてあげなきゃね」と電話で言われた。あまりの唐突さに何を言っているのかさっぱり分からなかった。しかしよくよく話を聞くとこういう事だそうだ。

 現在米中関係が拗れているため、遅かれ早かれ米中戦争が勃発する。そしたら日本は必ず巻き込まれて被害が出る。だから英語の出来る私だけでも海外へ逃亡させるべきである。その他にも、中国の陰謀論だとか反ワクチン派であるとか、女系天皇に反対であるとかそのようなことばかり聞かされた。コロナ禍で情報を集め過ぎて、何を信じれば良いのか分からなくなってしまったのだろうか。

国際問題より以前にうちは今家計が危ないのに、森を見て木を見ずというか…目の前の重要な問題から目を逸らしているとしか思えないのだ。

 

私は根拠が明確ではない胡散臭い話が嫌いなので、その情報の出所を聞いた。すると、都合の悪い話になると勝手に耳が閉じてしまうようで全く別の話にそらされてしまった。

正直悲しかった。

Twitterにいる犬アイコン長文bioの胡散臭いアカウントの中の人って、こんな感じなんだな。

かつては私の話をよく聞き、笑顔の多かった母が今ではへの字口でワクチン賛成派や女系天皇派の悪口を言い、私の意見には耳を閉じる人になっていた。

実の親が偏見にまみれた人間になる軌跡を目の当たりにした私の気持ちを察して欲しい。

 

しかし今の父親の方はまだまともである。母の意見に世論や研究論文などを参考にしながら中立的に、しかしうまく反論している。残念ながら全く効果はないようだが。

 

他にも金を徴収されたり、服を借りパクされたり、この人のツイートや本をよく読んでおけなどの命令が下りた。都内で10月に小池とトランプに対するデモが起きるから実家にずっと居た方がいい…などと、もう詳細を書くのも疲れた。

 

彼女が彼女なりに私を愛して、心配してくれているのは分かるのだが正直もう帰省したくない。顔も見るとつらくなる。私がひとり暮らしをしたから、同性の家族がいなくなったことの寂しさが彼女を蝕んだのか?でも元々宗教とか変な壺とか信じやすい性格だったから治らないのか?もう色々考え過ぎておかしくなりそう。

 

私が中学生までは家庭環境が最悪で、暗黒の時代があった。それから徐々に軌道修正して、暫くは安定していたはずだった。しかし今再び家族離散の危機が到来している。確実に両親や祖父母たちの相互の信頼が損なわれ、怪しい雲行きとなっているのを感じる。

 

どうすればいいですか。

 

 

料理

私は料理が好きだ。

何を作ろうかなと考えながらスーパーに買い物に行くのも好きだし、作るのも、自分で食べるのも好き。だけど何より好きなのは、自分の料理を誰かにおいしいと言って食べてもらえることだ。

料理を作るのは好きだけど、一方で非常に骨が折れる作業もあったりする。スーパーの帰り道に重い荷物持って帰ること、野菜や肉の下準備、焼き加減、茹で加減を細かくチェックしなければいけないこと、料理をしたあとの片付けをすること…などなど、めんどくさいことが多い。

でも、誰かがおいしいと言って私の料理を食べてくれた途端、料理のすべての工程の苦労が一気に吹っ飛ぶ。心から作って良かったと思えるし、食べてくれてありがとうという気持ちになる。

正直毎日そんなに凝った料理はできないし、カップラーメンで済ませる日もある。何度か失敗してしまった料理もある。誰からも料理を教わったことがないので、包丁の持ち方は独特だし、完全にイメージだけで作ってる。

そんな私の料理でも、友達や家族や恋人がおいしいと言って食べてくれるだけで報われる気がした。

年末年始は作ることが多かったのでそんなことを考えたりしてた。

「凝った料理の方が愛情がこもってる」と考える人もいるでしょう。間違いではないと思います。でも、クックドゥや冷凍の餃子みたいなぱぱっと作れる料理も愛情はこもってるよ。食べて欲しいっていう気持ちが愛情なので。

なんか全然まとまってないね。てへ。

 

今日鍋パをしたのですが、私は出身が秋田でして、きりたんぽ鍋を作った。

実を言うと秋田にいた頃はきりたんぽ鍋を食べたことがありません(照)。千葉の居酒屋みたいなとこで家族と食べたきりたんぽ鍋が私にとって秋田の味なので、今日はそこのきりたんぽをイメージして作った。

秋田にいた頃は、正月は茶碗蒸しとハタハタ鍋を食べるのがローカルルールみたいなものでして、毎年食べていた。千葉は正月に茶碗蒸し食べないんだね…

きりたんぽ鍋は、塩辛いくらいしょっぱめの地鶏のベース(それくらい濃くしないときりたんぽに味が乗らない)に基本の具材はまいたけ、ごぼう、鶏肉、セリ、きりたんぽとシンプルだけどおいしい。(お好みで白菜、ネギを入れる)入れる順番は白菜、ごぼう、まいたけ→鶏肉→ネギ→きりたんぽ→セリ。きりたんぽは形が崩れやすいのでほんとうに最後の方にちょんと入れる感じが良いと思う。セリは彩りも良いし、味のアクセントになるので是非入れて欲しいけど、スーパーにあまり売ってないんだよね。でも今の時期七草がそろそろ出てくると思うので、是非作っていただきたい。

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鍋パをするためにわざわざ姉ヶ崎まで来てくれた方々、ありがとうございました。

そして調子に乗って騒いでしまってすみませんでした。餃子も出すの忘れてしまってごめんね。

時そば面白かったよ。アリア良いね。

また何かしら集まる機会があったら、料理を作らせてくださいな〜

おしまい。

フェミニスト

言うまでもなく日本は武家社会から明治維新まで完全に男性の社会でした。女性には学も力もなく、子を育て、家を守ることが正しい生き方とされていました。

しかし明治維新時、平塚らいちょう等が青鞜社を設立し、女性の権利を主張し始めたことからだんだんと男性中心の社会から変わり始めます。

そして令和になりまして、日々SNSでさまざまなジェンダーやら女性の権利やらが議論されています。

それ自体はね、みんな意識が高くてえらいな〜、差別には敏感にならなきゃな、と思うよ。

でもね、でも、最近さ、女性のユーザーだと思うんだけど、これ、フェミニストじゃなくてミサンドリスト(男性嫌悪者)じゃね?って思うようなこと呟いてるのね。(例えば満員電車で男性に息を吹きかけられた!キモい!みたいな)

それを自分はフェミニストだって自身にラベル貼って嫌悪を正当化してるのね。

 

それは違うだろ、と。

フェミニストこわい!って側から見て思われてしまうのはね、それはもうフェミニストではないとおもうんだよね。筋が通っていなかったり、男性が不公平であったり、感情的に主張するのであればフェミニストを名乗らないで欲しいんだな〜、フェミニストの印象が悪くなるだけなので。もうそれは、ミサンドリスト

ちゃんと線引きして欲しいよね。主観と客観をきちんと持って発言してほしい。

令和になって次は男性が抑圧されなければいけない社会になってしまうような気がしてこわいんです。

 

わたしはフェミニストでもないし反フェミでもないし、ミソジニストでもないです。(男女平等が良い!と思っている私も女子大に通ってます。自家撞着っぽいけど、別にジェンダー的な深い意味があって女子大を選んだわけじゃないので許してください。校舎が好きだった。立地は悪いけど。)

 

ジェンダーの問題で、どちらの立場を応援してるわけじゃないけど、男性だから〜とか女性だから〜っていう理由で、誰かが不公平な思いをして欲しくないと思います。

でもこれ難しい問題だよね、、性同一性障害の男性が女子大に入学したいと主張して問題になった話とか聞くと、一筋縄ではいかないなと思う。(お茶の水女子大はトランスジェンダーの受け入れを許可してました。)

 

それぞれの考えがあって難しい問題ですが、一元的にものをとらえないで、自分の内在化された価値観を客観的に見つめ、世論と相対化して考えましょう。(自戒)

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最後に1枚。

落ち葉をみると秋って感じしません?これ背景うちの校舎なんですけど、秋に合うんですよね〜。